2011年01月10日

佐奈川遊歩道

佐奈川に架かる姫街道の金屋橋のたもとに、中央通公園があります。


ここに、豊川市健康の道<佐奈川コース>の案内看板があります。


上流のふれあい公園、出合橋に向かいます。


金屋小学校の脇にある歩道橋です。
9日付の中日新聞や東愛知新聞に記事が載っています。
ここでは、東愛知新聞の記事から引用します。
9日に成人式を控えた豊川市金屋小学校卒業生が8日、同小隣りを流れる佐奈川に架かる金屋歩道橋の絵を描き直した。

6年生の時に全員で描いた絵が剥げ、二十歳の記念にもう一度描こうと、寒空の下、当時の絵を思い出しながら手を動かした。

きれいになった歩道橋の絵、すがすがしいです。


佐奈川遊歩道では、ジョギングする人、散歩する人 多くの人が楽しんでいます。


  


Posted by むぎゅむぎゅ at 09:04Comments(0)眺め・景色

2011年01月09日

霞堤

霞堤は堤防の一部に開口部を設けたもので、
洪水時に水を逆行させて、遊水地(畑地)に導いたのです。
建設省の「母なる豊川 流れの軌跡」から引用した霞堤の地図をご覧ください。


厳密には、霞堤は豊川の本堤防の差し口を表します。
これから紹介する行明から三上に至る堤防は、遊水地から外に出ないようにする控え堤です。

まずは、豊川放水路に近い行明の控え堤です。


控え堤の市街地側は民家の裏庭のように使われています。


院之子町あたりにある霞堤の説明看板です。


控え堤は姫街道も横切ります。
右手の看板の裏側に見える土手が控え堤です。




この控え堤は三上まで続きます。


この控え堤が単なる土手ではなくて、河川堤防であることは、このコンクリートが証明します。


河川許可票が張ってあります。
  


Posted by むぎゅむぎゅ at 22:14Comments(0)眺め・景色

2011年01月09日

当古 川と生活のかかわりⅤ

当古の人の子供時代の話を紹介します。
かなりの腕白ぶりです。

遊び
○ 夏は川遊びが中心で、流木を立てて、飛び込み台を作り遊んだ。
○ 橋脚のところに渦ができ、わざと渦があるところに飛び込んで遊んだ。
○ 川での水難事故はよそから遊びに来た子に多かった。
○ アーチ型の当古橋ができた時は、アーチの上に登って遊んだ。
○ 川に飛び込んだりしたが、事故はなかった。

手伝い仕事
○ ふろの水汲みは子供の仕事だった。
○ 麦刈、芋掘り、芋のつる挿しなどの農作業を手伝った。
○ 田植え時期の学校の農繁休みには家の仕事を手伝った。
○ 藁の束つくりはいやな仕事だった。

小学校卒業後
○ 大部分の人は奉公に出た。洗濯屋、かばん屋などいろいろあった。
○ 奉公先は東京、名古屋、大阪、豊橋、豊川など都市部であった。
○ 奉公は口減らしの意味があり、長男さえ家にいれば良かった。
○ 新家を出すと、田畑がいるので、ほとんどが養子か奉公に出た。
○ 頭の良い人は中学校に進学した。

まさに、日本人という小学生たちですね。


新旧当古橋が並んでいます。
左側のアーチの部分に登ったり、橋から川へ飛び込んだり、
昔の子供は逞しかったですね。

  


Posted by むぎゅむぎゅ at 14:44Comments(0)歴史

2011年01月09日

当古 川と生活のかかわりⅣ

引き続き、当古長寿会会長と豊川流域研究会の「人と人が寄り添うまちづくり」をもとに、紹介します。

昔の村の様子
○ 豊川稲荷近辺より当古の方が商店も多く、銀行も「大野銀行」と「尾参銀行」があった。
○ 姫街道筋は、渡船場だったので、出水による川止めの時には、旅人が宿泊して、何日も出水が収まるまで、待たざるを得なかった。
○ そのため、旅籠や商店、芸者置屋があり、大井川の島田のように繁盛した。

こちらは、現在の当古の街並みです。静かな街並みに戻っています。




共同湯
○ 秋葉社の隣に共同湯があり、昭和3年から40年代までやっていた。
○ 渡船場の川止めになった人のために、できたといわれている。
○ 組合員制度で、住民の約半分が加入していた。
○ 輪番制で湯沸かし、清掃、燃料の確保などの作業をした。
○ 風呂は社交場であり、村人の一体感を生み出す源であった。
○ 脱衣場には畳があり、火鉢を囲んで、いつまでも座り込んで話をしていた。
○ 周知事項は浴場内の掲示板に張り出した。

こちらが、秋葉社。この隣に共同湯があったのですね。



  


Posted by むぎゅむぎゅ at 08:55Comments(0)歴史

2011年01月08日

新城市街地と母なる豊川(とよがわ)

 ここは、8日昼頃の本宮山連峰の中腹face01
眼下に見えるのは新城市街地です。

 


 市街地の今朝の外気温は氷点下1~2℃だったようです。
やはり外の空気は冷たいですねface10




 母なる豊川(とよがわ)はどのあたりを流れているのかな?
画面中段あたりの緑の木々が横に連なっているところだろうかface04


 

こちらは新東名高速道路の工事現場、景色がどんどん変わっていきますね。
環境への影響はどうなっているのだろうかface07






  


Posted by ビクター at 22:07Comments(0)眺め・景色

2011年01月08日

当古 川と生活のかかわりⅢ

11月13日の豊川リバーウォークで当古町の長老会会長からお聞きした話や、
豊川流域研究会が取りまとめた「人と人が寄り添うまちづくり 洪水と共に生活した記録」を基に、
当古の生活の歴史を紹介しています。

氏神様と祭り
○ 進雄神社は豊川の進雄神社より格が上であった。




○ 奉納手筒花火は自分らで作った。
○ 渡船で対岸にあった桐の木を切り、桑に桐を混ぜて、お宮で灰に、花火を作った。
○ 神輿、鬼、獅子が出た。
○ 神輿はお宮を出発し、秋葉社、新宮、旧道、酒屋の順に進んだ。
○ 行列の前に獅子、鬼が出て村の中を廻った。
○ 社務所の落成記念には舞台を組み立てて芝居をやった。
○ 芝居道具は千両まで車で借りに行った。

これが社務所です。
基礎にはしっかりとした石積みがあります。


川施餓鬼
○ 川での犠牲者に対する盆の供養として行われた。
○ 堤防の上に露店がたくさん出て、餅投げもあった。
○ お盆のお供え物をサトイモの葉に包んで川に流した。

現在の豊川と堤防越しに見える当古の町。


当古の進雄神社はこちらです。
  


Posted by むぎゅむぎゅ at 22:04Comments(0)歴史

2011年01月08日

当古 川と生活のかかわりⅡ

川魚漁
○ 三上を境として「下豊川漁業協同組合があった。」
○ 当古橋の上から見ると、川はアユばかりで川底が見えないくらいいて、腰籠2~3杯くらい撮れた。
○ アユは売ることはなく、自家用で、近所に配ったりもした。
○ 塩焼き、天ぷら、串に刺し蒸し焼きにして保存食とした。
○ うどんの粉にしたり、ダシにもした。
○ 4月の大雨が降るころ、火を振って網へ導く「火ぶり漁」でアユを捕まえた。
○ ウグイもすごい量捕れた。
○ ウグイは川の増水時に投網で捕った。
○ ウグイ漁は船が必要でるが、当古には5~6艘しかなかった。
○ ウグイ漁は川底の石を掻き分けて、すり鉢状の穴を掘り、穴にきれいな石を敷き詰め、スリバ(産卵場)を作り、産卵に来たウグイを投網で捕った。

この豊川の川底がアユで見えないことがあったのですね。
大変貴重な話を聞けましたが、同時に大切なものを失ってしまったことを実感できました。
  


Posted by むぎゅむぎゅ at 18:13Comments(0)歴史

2011年01月08日

当古 川と生活のかかわり

昨年11月13日の豊川リバーウォークで、
当古町長寿会長さんから、川と生活のかかわりについて、
お話を伺いました。
この話は、豊川流域研究会が2009年度に聞き取り調査をした内容を基にしています。


大変興味深い内容ですので、ここで簡単に紹介します。
洪水
○ 霞堤からの逆流による浸水は、梅雨末期から台風シーズンにかけて年に数回あるのが常態であった。
○ 浸水が引く時には畑の野菜がしばしば流出した。
○ 近くには古川が流れているが、これが昔の豊川の本流であった。


農業
○ 畑作中心の農業地帯であり、水田は自家消費分だけ。
○ 戦前は養蚕が盛んで、一面桑畑であった。
○ 戦中戦後は食糧増産政策により、サツマイモ畑へ転換した。
○ その後は野菜中心の農業へと変遷した。
○ 昭和30年代初期に簡易水道が設置され、主な用途は農業用のスプリンクラーであったが、一部は家庭にも給水された。
○ 霞堤を締め切ってから、畑の水はけが悪くなった。それは、窪み状の地形のため、排水路を失ったからである。
○ トラクターを使用するようになってから、刃の深さだけ柔らかくなるが、その下は機械の重さで土が締り、水が浸み込まなくなった。
○ 水利組合に酒を1升持って行かないと、水田の水を貰えないことがあった。酒1升がトラブルを避け、ムラを円滑に運営する手段であった。3升持っていけば、腰を抜かすぐらいだった。酒の力は大きかった。





  

Posted by むぎゅむぎゅ at 11:47Comments(0)歴史

2011年01月06日

当古の洪水対策

現在の当古の街並みです。
昔の姫街道が通っていたところです。


秋葉神社は石が積んで、高くしてあります。


民家も石積みがあります。


こちらの家も、石積みがあります。


生垣にも石積みがあります。


豊川流域研究会が2010年3月にまとめた
「人と人が寄り添うまちづくり 洪水と共に生活した記録 豊川市当古町の事例」には、

○ 水見櫓があり、霞堤から逆流してくる水位と、潮の干満による川の水位を観察した。
○ 半鐘の打ち方によって、水位の状況を知らせた。
○ 霞堤の外と内の水圧の差が少なくて、穏やかに水が来て、鉄砲水にはならなかった。
○ 1~2mに丸石を積んでかさ上げをした上に、家屋を建てた。
○ 2階建てで1階の壁はなく、板張りで、高床になっていた。
○ 生垣をめぐらし、水が引く時の家財の流出を防いだ。
○ 夏は畳を敷かず、畳と家具は2階へ上げておいた。
○ 便所の対策は便甕を水で満たし、その上に莚などを被せ、その上に石を置いたりして、便が溢れるのを防いだ。
○ 家畜は川の堤防にl杭を打って、そこに繋いだ。
○ 水が引く時、引き水を利用しながら、床を水洗いした。

このように、当古町では洪水とともに生活をしたのでした。
その様子をこの写真から感じることができます。
上が昭和10年、下が昭和12年の出水の状況です。
建設省豊橋工事事務所発行「母なる豊川 流れの軌跡」から引用しました。
  


Posted by むぎゅむぎゅ at 22:42Comments(0)地域の課題・問題

2011年01月05日

当古の今と昔

豊川右岸堤防から青い色の当古橋が見えます。


当古橋の近くに川に降りる階段があります。


注目してほしいのはこの窪地。


当古橋は、橋がかかる前、渡し船がありました。
昭和10年頃の写真をご覧ください。
橋と渡し舟が共存しています。
先ほどの窪地は、この渡船場の名残りではないかと想像します。


当古の渡しはこの案内看板にも書かれています。
○ 徳川家康が浜松城主のころ、浜松と岡崎を往来する途中、豊川の増水で立ち往生していたところ、
  中山家の先祖が当古の船渡しをした功績により、渡船の御用を任じられた。
○ 安政6年(1158年)に村営となるまで、当古の渡しの運営にあたった。


草が生い茂るこの風景が、逆に歴史を感じさせます。


しかし、今も当古橋は、国道362号として、豊川と浜松を結ぶ幹線道路としての役割を果たしています。


  


Posted by むぎゅむぎゅ at 22:22Comments(0)眺め・景色