2011年01月08日

新城市街地と母なる豊川(とよがわ)

 ここは、8日昼頃の本宮山連峰の中腹face01
眼下に見えるのは新城市街地です。

 


 市街地の今朝の外気温は氷点下1~2℃だったようです。
やはり外の空気は冷たいですねface10




 母なる豊川(とよがわ)はどのあたりを流れているのかな?
画面中段あたりの緑の木々が横に連なっているところだろうかface04


 

こちらは新東名高速道路の工事現場、景色がどんどん変わっていきますね。
環境への影響はどうなっているのだろうかface07






  


Posted by ビクター at 22:07Comments(0)眺め・景色

2011年01月08日

当古 川と生活のかかわりⅢ

11月13日の豊川リバーウォークで当古町の長老会会長からお聞きした話や、
豊川流域研究会が取りまとめた「人と人が寄り添うまちづくり 洪水と共に生活した記録」を基に、
当古の生活の歴史を紹介しています。

氏神様と祭り
○ 進雄神社は豊川の進雄神社より格が上であった。




○ 奉納手筒花火は自分らで作った。
○ 渡船で対岸にあった桐の木を切り、桑に桐を混ぜて、お宮で灰に、花火を作った。
○ 神輿、鬼、獅子が出た。
○ 神輿はお宮を出発し、秋葉社、新宮、旧道、酒屋の順に進んだ。
○ 行列の前に獅子、鬼が出て村の中を廻った。
○ 社務所の落成記念には舞台を組み立てて芝居をやった。
○ 芝居道具は千両まで車で借りに行った。

これが社務所です。
基礎にはしっかりとした石積みがあります。


川施餓鬼
○ 川での犠牲者に対する盆の供養として行われた。
○ 堤防の上に露店がたくさん出て、餅投げもあった。
○ お盆のお供え物をサトイモの葉に包んで川に流した。

現在の豊川と堤防越しに見える当古の町。


当古の進雄神社はこちらです。
  


Posted by むぎゅむぎゅ at 22:04Comments(0)歴史

2011年01月08日

当古 川と生活のかかわりⅡ

川魚漁
○ 三上を境として「下豊川漁業協同組合があった。」
○ 当古橋の上から見ると、川はアユばかりで川底が見えないくらいいて、腰籠2~3杯くらい撮れた。
○ アユは売ることはなく、自家用で、近所に配ったりもした。
○ 塩焼き、天ぷら、串に刺し蒸し焼きにして保存食とした。
○ うどんの粉にしたり、ダシにもした。
○ 4月の大雨が降るころ、火を振って網へ導く「火ぶり漁」でアユを捕まえた。
○ ウグイもすごい量捕れた。
○ ウグイは川の増水時に投網で捕った。
○ ウグイ漁は船が必要でるが、当古には5~6艘しかなかった。
○ ウグイ漁は川底の石を掻き分けて、すり鉢状の穴を掘り、穴にきれいな石を敷き詰め、スリバ(産卵場)を作り、産卵に来たウグイを投網で捕った。

この豊川の川底がアユで見えないことがあったのですね。
大変貴重な話を聞けましたが、同時に大切なものを失ってしまったことを実感できました。
  


Posted by むぎゅむぎゅ at 18:13Comments(0)歴史

2011年01月08日

当古 川と生活のかかわり

昨年11月13日の豊川リバーウォークで、
当古町長寿会長さんから、川と生活のかかわりについて、
お話を伺いました。
この話は、豊川流域研究会が2009年度に聞き取り調査をした内容を基にしています。


大変興味深い内容ですので、ここで簡単に紹介します。
洪水
○ 霞堤からの逆流による浸水は、梅雨末期から台風シーズンにかけて年に数回あるのが常態であった。
○ 浸水が引く時には畑の野菜がしばしば流出した。
○ 近くには古川が流れているが、これが昔の豊川の本流であった。


農業
○ 畑作中心の農業地帯であり、水田は自家消費分だけ。
○ 戦前は養蚕が盛んで、一面桑畑であった。
○ 戦中戦後は食糧増産政策により、サツマイモ畑へ転換した。
○ その後は野菜中心の農業へと変遷した。
○ 昭和30年代初期に簡易水道が設置され、主な用途は農業用のスプリンクラーであったが、一部は家庭にも給水された。
○ 霞堤を締め切ってから、畑の水はけが悪くなった。それは、窪み状の地形のため、排水路を失ったからである。
○ トラクターを使用するようになってから、刃の深さだけ柔らかくなるが、その下は機械の重さで土が締り、水が浸み込まなくなった。
○ 水利組合に酒を1升持って行かないと、水田の水を貰えないことがあった。酒1升がトラブルを避け、ムラを円滑に運営する手段であった。3升持っていけば、腰を抜かすぐらいだった。酒の力は大きかった。





  

Posted by むぎゅむぎゅ at 11:47Comments(0)歴史