2011年01月09日

霞堤

霞堤は堤防の一部に開口部を設けたもので、
洪水時に水を逆行させて、遊水地(畑地)に導いたのです。
建設省の「母なる豊川 流れの軌跡」から引用した霞堤の地図をご覧ください。


厳密には、霞堤は豊川の本堤防の差し口を表します。
これから紹介する行明から三上に至る堤防は、遊水地から外に出ないようにする控え堤です。

まずは、豊川放水路に近い行明の控え堤です。


控え堤の市街地側は民家の裏庭のように使われています。


院之子町あたりにある霞堤の説明看板です。


控え堤は姫街道も横切ります。
右手の看板の裏側に見える土手が控え堤です。




この控え堤は三上まで続きます。


この控え堤が単なる土手ではなくて、河川堤防であることは、このコンクリートが証明します。


河川許可票が張ってあります。
  


Posted by むぎゅむぎゅ at 22:14Comments(0)眺め・景色

2011年01月09日

当古 川と生活のかかわりⅤ

当古の人の子供時代の話を紹介します。
かなりの腕白ぶりです。

遊び
○ 夏は川遊びが中心で、流木を立てて、飛び込み台を作り遊んだ。
○ 橋脚のところに渦ができ、わざと渦があるところに飛び込んで遊んだ。
○ 川での水難事故はよそから遊びに来た子に多かった。
○ アーチ型の当古橋ができた時は、アーチの上に登って遊んだ。
○ 川に飛び込んだりしたが、事故はなかった。

手伝い仕事
○ ふろの水汲みは子供の仕事だった。
○ 麦刈、芋掘り、芋のつる挿しなどの農作業を手伝った。
○ 田植え時期の学校の農繁休みには家の仕事を手伝った。
○ 藁の束つくりはいやな仕事だった。

小学校卒業後
○ 大部分の人は奉公に出た。洗濯屋、かばん屋などいろいろあった。
○ 奉公先は東京、名古屋、大阪、豊橋、豊川など都市部であった。
○ 奉公は口減らしの意味があり、長男さえ家にいれば良かった。
○ 新家を出すと、田畑がいるので、ほとんどが養子か奉公に出た。
○ 頭の良い人は中学校に進学した。

まさに、日本人という小学生たちですね。


新旧当古橋が並んでいます。
左側のアーチの部分に登ったり、橋から川へ飛び込んだり、
昔の子供は逞しかったですね。

  


Posted by むぎゅむぎゅ at 14:44Comments(0)歴史

2011年01月09日

当古 川と生活のかかわりⅣ

引き続き、当古長寿会会長と豊川流域研究会の「人と人が寄り添うまちづくり」をもとに、紹介します。

昔の村の様子
○ 豊川稲荷近辺より当古の方が商店も多く、銀行も「大野銀行」と「尾参銀行」があった。
○ 姫街道筋は、渡船場だったので、出水による川止めの時には、旅人が宿泊して、何日も出水が収まるまで、待たざるを得なかった。
○ そのため、旅籠や商店、芸者置屋があり、大井川の島田のように繁盛した。

こちらは、現在の当古の街並みです。静かな街並みに戻っています。




共同湯
○ 秋葉社の隣に共同湯があり、昭和3年から40年代までやっていた。
○ 渡船場の川止めになった人のために、できたといわれている。
○ 組合員制度で、住民の約半分が加入していた。
○ 輪番制で湯沸かし、清掃、燃料の確保などの作業をした。
○ 風呂は社交場であり、村人の一体感を生み出す源であった。
○ 脱衣場には畳があり、火鉢を囲んで、いつまでも座り込んで話をしていた。
○ 周知事項は浴場内の掲示板に張り出した。

こちらが、秋葉社。この隣に共同湯があったのですね。



  


Posted by むぎゅむぎゅ at 08:55Comments(0)歴史