2011年06月23日
黄柳橋を見上げる
河原まで降りて、黄柳橋を見上げます。
山の緑に馴染んで、風格があります。

河原の水は清流 と言いたいのですが、
上流に集落があるためでしょうか?
宇連川の最上流と比較すると、
少し濁りを感じます。

でも、河原の石は色・艶を楽しめます。
ものすごい圧力を受けた三波川変成帯の変成岩たち。

河原まで降りるのに階段がありますが、
少し急なので、気をつけてください。
山の緑に馴染んで、風格があります。
河原の水は清流 と言いたいのですが、
上流に集落があるためでしょうか?
宇連川の最上流と比較すると、
少し濁りを感じます。
でも、河原の石は色・艶を楽しめます。
ものすごい圧力を受けた三波川変成帯の変成岩たち。
河原まで降りるのに階段がありますが、
少し急なので、気をつけてください。
2011年06月22日
山の中の船着き場
昔、川は物資輸送の交通の動脈でした。
豊川では、乗本や新城で10艘以上の船がありました。
当時の船荷は、角材、丸太、きね、下駄、年貢米、栗、
椎茸、茶、竹輪、砥石、灯篭、綿などで、
吉田湊、前芝湊を経て、遠く江戸までも送られていたそうです。
乗本の鵜飼船がブロンズ像として、設置されています。

そして、乗本音頭が刻まれています。
「♪ 昔や乗本その名の如く、羽根の河岸にぎわいて、
それにぎわいて、吉田通いの船が着く、船が着く 」

江戸時代には盛んであった舟運も、
近年の道路、鉄道等の陸上輸送の発達により、衰退し、
大正末期にはその姿も消えてしまったとのことです。
豊川では、乗本や新城で10艘以上の船がありました。
当時の船荷は、角材、丸太、きね、下駄、年貢米、栗、
椎茸、茶、竹輪、砥石、灯篭、綿などで、
吉田湊、前芝湊を経て、遠く江戸までも送られていたそうです。
乗本の鵜飼船がブロンズ像として、設置されています。
そして、乗本音頭が刻まれています。
「♪ 昔や乗本その名の如く、羽根の河岸にぎわいて、
それにぎわいて、吉田通いの船が着く、船が着く 」
江戸時代には盛んであった舟運も、
近年の道路、鉄道等の陸上輸送の発達により、衰退し、
大正末期にはその姿も消えてしまったとのことです。
2011年06月21日
乗本の文化財
神社仏閣や巨木が文化財となる場合は多いのですが、
今も使われている橋が文化財であることをご存知ですか?
大正8年に完成したこの黄柳橋が文化財なのです。
「県内では最初期のRC道路橋で、スパン30mは、
大正期における開腹アーチ橋としては最大スパンを誇る。
道路荷重をアーチスラブに伝える垂直材をスレンダーなものとし、
木井桁のように架構しているところが特徴。
県技師の吉田仙之丞の設計と伝える。」
が登録の理由です。
こちらが平成6年に完成した三代目の黄柳橋です。

二代目の橋は歩道用に使われています。
三代目は写真の左側にあります。

明治13年に完成した初代の木橋から、二代目、三代目の移り変わりです。
この地域の発展の歴史が伝わります。
黄柳橋の詳しい話はこちらのHPをご覧ください。

今も使われている橋が文化財であることをご存知ですか?
大正8年に完成したこの黄柳橋が文化財なのです。
「県内では最初期のRC道路橋で、スパン30mは、
大正期における開腹アーチ橋としては最大スパンを誇る。
道路荷重をアーチスラブに伝える垂直材をスレンダーなものとし、
木井桁のように架構しているところが特徴。
県技師の吉田仙之丞の設計と伝える。」
が登録の理由です。
こちらが平成6年に完成した三代目の黄柳橋です。
二代目の橋は歩道用に使われています。
三代目は写真の左側にあります。
明治13年に完成した初代の木橋から、二代目、三代目の移り変わりです。
この地域の発展の歴史が伝わります。
黄柳橋の詳しい話はこちらのHPをご覧ください。
2011年06月21日
鳳来大橋からの眺め
長篠と乗本を結ぶ鳳来大橋から下流を望みます。
小さく蛇行しながら、山あいを縫っています。

真下を覗くと、黒い岩。

黄柳川との合流点では、黄柳川の水がしぶきをあげて流れています。

黄柳川から見ると、さらに渓谷美が楽しめます。

小さく蛇行しながら、山あいを縫っています。
真下を覗くと、黒い岩。
黄柳川との合流点では、黄柳川の水がしぶきをあげて流れています。
黄柳川から見ると、さらに渓谷美が楽しめます。
2011年06月19日
大野頭首工
大野頭首工は昭和36年に完成しました。
東三河や湖西地方へ供給される豊川用水の多くが、
この大野頭首工で取水され、供給されます。

堰で水をせき止めます。

溜めた水を取り込み、

導水路に導きます。

大野導水路から西部幹線水路を通じて、豊川市や蒲郡市へ、
東部幹線水路を通じて、豊橋市や田原市へ供給しています。

詳しくは豊川用水のHPをご覧ください。
東三河や湖西地方へ供給される豊川用水の多くが、
この大野頭首工で取水され、供給されます。

堰で水をせき止めます。
溜めた水を取り込み、
導水路に導きます。
大野導水路から西部幹線水路を通じて、豊川市や蒲郡市へ、
東部幹線水路を通じて、豊橋市や田原市へ供給しています。
詳しくは豊川用水のHPをご覧ください。
2011年06月18日
赤引糸
桑の実です。

この地方は服部郷と呼ばれ、
たくさんの野生の桑が繁茂し、
生糸が紡がれ、赤引糸として、
明治維新まで伊勢神宮に奉納されていたそうです。
そのことがこの大野神社の

隣にある服部神社がその名残です。

東三河は養蚕業が盛んでした。
昭和30年代にはあちらこちらに桑畑があって、
桑の実を口の中を紫色にしていただきました。

この地方は服部郷と呼ばれ、
たくさんの野生の桑が繁茂し、
生糸が紡がれ、赤引糸として、
明治維新まで伊勢神宮に奉納されていたそうです。
そのことがこの大野神社の
隣にある服部神社がその名残です。
東三河は養蚕業が盛んでした。
昭和30年代にはあちらこちらに桑畑があって、
桑の実を口の中を紫色にしていただきました。
2011年06月18日
三河大野探訪
江戸時代に鳳来寺と秋葉山を結ぶ秋葉海道ができ、
明治時代には豊橋と結ぶ別所海道が出来て、
三河大野が繁栄しました。
ここが旧別所街道と旧秋葉海道の交差点です。

オレンジ色のベストを着ているメンバーが観察しているのが、
この「大野町道路元標」です。

この交差点に若松屋旅館があります。
かつて、街道沿いに数件の宿屋がありましたが、
現在は、若松屋1軒が営業しています。

その隣にあるのが、鳳来館。
明治14年に別所街道が開通すると、
製糸や林業で大いに栄え、
明治27年に大野銀行が設立されました。
この鉄筋コンクリートの建物は、銀行として、
大正14年に完成しました。

現在の大野の街並みです。
古い建物もまだ残っています。

この記事は、「豊橋技術科学大学建築史研究室+プロジェクト・ルネサンス」作成の
「 江戸時代からずっと,三河大野」を参考にしました。
明治時代には豊橋と結ぶ別所海道が出来て、
三河大野が繁栄しました。
ここが旧別所街道と旧秋葉海道の交差点です。
オレンジ色のベストを着ているメンバーが観察しているのが、
この「大野町道路元標」です。
この交差点に若松屋旅館があります。
かつて、街道沿いに数件の宿屋がありましたが、
現在は、若松屋1軒が営業しています。
その隣にあるのが、鳳来館。
明治14年に別所街道が開通すると、
製糸や林業で大いに栄え、
明治27年に大野銀行が設立されました。
この鉄筋コンクリートの建物は、銀行として、
大正14年に完成しました。
現在の大野の街並みです。
古い建物もまだ残っています。
この記事は、「豊橋技術科学大学建築史研究室+プロジェクト・ルネサンス」作成の
「 江戸時代からずっと,三河大野」を参考にしました。
2011年06月18日
天平の遺産
羊形硯です。
奈良時代に平城京から伝わり、
国府などの国の役所などの関連遺跡から出土します。
シルクロードの香りがします。

こちらは、国府の役所の事務で使われた硯です。

これらの出土品が「三河天平の里資料館」で展示されています。
奈良時代に平城京から伝わり、
国府などの国の役所などの関連遺跡から出土します。
シルクロードの香りがします。
こちらは、国府の役所の事務で使われた硯です。
これらの出土品が「三河天平の里資料館」で展示されています。
2011年06月16日
三河国分尼寺跡史跡公園
豊川市では、歴史的文化遺産である三河国分尼寺跡を保存して永く後世に伝えていくために、
平成11年度から17年度にかけて、中門及び回廊の一部を遺構の真上に実物大建物として復元し、史跡公園として、整備しました。
奈良時代の天平の昔、赤塚山で造られた瓦が国分尼寺で使われたのですね。

全体の配置図をご覧ください。

配置図の赤い着色部が中門で、
これが復元した中門です。

金堂跡です。

奥から中門を振り返ります。
国分尼寺は約22,000㎡と広大です。

平成11年度から17年度にかけて、中門及び回廊の一部を遺構の真上に実物大建物として復元し、史跡公園として、整備しました。
奈良時代の天平の昔、赤塚山で造られた瓦が国分尼寺で使われたのですね。
全体の配置図をご覧ください。
配置図の赤い着色部が中門で、
これが復元した中門です。
金堂跡です。
奥から中門を振り返ります。
国分尼寺は約22,000㎡と広大です。
2011年06月15日
赤塚山の遺跡
赤塚山は真っ赤な赤土の山で、

塚は古墳を表しています。
この古墳は直径17mの円墳です。
市田町周辺を治めていた有力者の墓だそうです。

また、瓦を製作した工房や窯の跡があります。
そのため、窯をイメージしたものや、

瓦をデザインした造りにしてあるのですね。

国分寺や国分尼寺の瓦生産と紹介されています。

塚は古墳を表しています。
この古墳は直径17mの円墳です。
市田町周辺を治めていた有力者の墓だそうです。
また、瓦を製作した工房や窯の跡があります。
そのため、窯をイメージしたものや、
瓦をデザインした造りにしてあるのですね。
国分寺や国分尼寺の瓦生産と紹介されています。