2011年05月03日
西三河でも地盤沈下
西三河では1605年まで矢作川の本流が流れていた吉良町を中心に、
軟弱な地盤があり、地盤沈下地帯があります。
赤色で示されたところです。
昭和50年から平成21年までに5㎝から20㎝のコンターが矢作古川沿いに描かれています。
もうひとつ注目していただきたい表示があります。
凡例の一番下の記号で囲まれた部分がゼロメートル地帯です。
碧南市から一色町、幡豆町の海岸線に広がっています。
ゼロメートル地帯は災害危険地域です。

吉良町地内の主要な水準点における地盤沈下の状況です。
昭和50年から平成21年までに20㎝から44㎝沈下しています。
最近でも緩やかながら地盤沈下が続いているようです。

図が見にくいと思いますので、こちらの報告書をご覧ください。
軟弱な地盤があり、地盤沈下地帯があります。
赤色で示されたところです。
昭和50年から平成21年までに5㎝から20㎝のコンターが矢作古川沿いに描かれています。
もうひとつ注目していただきたい表示があります。
凡例の一番下の記号で囲まれた部分がゼロメートル地帯です。
碧南市から一色町、幡豆町の海岸線に広がっています。
ゼロメートル地帯は災害危険地域です。

吉良町地内の主要な水準点における地盤沈下の状況です。
昭和50年から平成21年までに20㎝から44㎝沈下しています。
最近でも緩やかながら地盤沈下が続いているようです。

図が見にくいと思いますので、こちらの報告書をご覧ください。
2011年05月03日
矢作古川舟遊び
ゴールデンウィークには矢作古川で舟遊びができます。
この写真は昨年のゴールデンウィークのものですが、

今年のゴールデンウィークも舟遊びが催されます。

詳しくは、こちらのHPをご覧ください。
矢作古川は、昔、矢作川の本流でした。
吉良家が矢作古川を利用して、新田開発と塩田開発をしていたのですが、
徳川家康が1605年にわざわざ台地を切り開いて、今の矢作川のところを本川としたのです。
この写真で色の濃いところは山地、少し薄いところが台地、薄いところは低地です。
志貴荘から西に向かって台地を切り開いたのです。

その狙いは、吉良領の新田開発を阻害するためです。
矢作川を切り替えた後は、狙い通り、今の矢作川筋で新田開発が行われるようになりました。
この写真は昨年のゴールデンウィークのものですが、
今年のゴールデンウィークも舟遊びが催されます。

詳しくは、こちらのHPをご覧ください。
矢作古川は、昔、矢作川の本流でした。
吉良家が矢作古川を利用して、新田開発と塩田開発をしていたのですが、
徳川家康が1605年にわざわざ台地を切り開いて、今の矢作川のところを本川としたのです。
この写真で色の濃いところは山地、少し薄いところが台地、薄いところは低地です。
志貴荘から西に向かって台地を切り開いたのです。

その狙いは、吉良領の新田開発を阻害するためです。
矢作川を切り替えた後は、狙い通り、今の矢作川筋で新田開発が行われるようになりました。

2011年05月03日
東南海地震後の悲劇
1944年12月の東南海地震で、愛知県内で438人の死者がありました。
さらに東南海地震の1か月後、1月13日に三河地震が発生しました。
三河地震による死者はなんと愛知県内で2,306人です。
三河地震はM6.8で、三河湾内を震源域としています。

西尾市から幸田町、蒲郡市に至る断層が生じました。

死者数は幡豆郡1,170人、碧海郡851人、宝飯郡237人と、甚大な被害をもたらしました。

東南海地震と三河地震のことがこのHPに書かれていますので、紹介します。
さらに東南海地震の1か月後、1月13日に三河地震が発生しました。
三河地震による死者はなんと愛知県内で2,306人です。
三河地震はM6.8で、三河湾内を震源域としています。

西尾市から幸田町、蒲郡市に至る断層が生じました。

死者数は幡豆郡1,170人、碧海郡851人、宝飯郡237人と、甚大な被害をもたらしました。

東南海地震と三河地震のことがこのHPに書かれていますので、紹介します。