2011年09月17日
平井稲荷山貝塚
縄文時代の地球温暖期の海面は今より3~5m高く、
豊川下流域は遠浅の海だった。
人々は両岸の台地に暮らし、小坂井町や牟呂の貝塚は当時の海岸線を物語る。
平井稲荷山貝塚はそのひとつ。
3000年から2300年前の縄文晩期だそうです。

石碑です。
石碑の周囲には貝殻が散乱しています。


貝塚はこのように分布しています。

湧水も出ていたようです。

現代の平井稲荷山貝塚の近くを新幹線が通ります。

豊川下流域は遠浅の海だった。
人々は両岸の台地に暮らし、小坂井町や牟呂の貝塚は当時の海岸線を物語る。
平井稲荷山貝塚はそのひとつ。
3000年から2300年前の縄文晩期だそうです。
石碑です。
石碑の周囲には貝殻が散乱しています。
貝塚はこのように分布しています。
湧水も出ていたようです。
現代の平井稲荷山貝塚の近くを新幹線が通ります。
Posted by むぎゅむぎゅ at 23:10│Comments(3)
│歴史
この記事へのコメント
前芝の津波の歴史(1/21)、津波に最も弱い神野新田 その理由は(1/25)などの記事に関連して、紹介いただいている地図の中に、稲荷山貝塚の地名があります(東海道新幹線の北側で旧小坂井町、平井という地名のところです。)。平安時代ころの交通、しかすがの渡しの地名などにもあります。いくつかの大津波の内陸到達線近くに位置しています。
ここは、豊川の右岸の河岸段丘(中位段丘)が沖積地(海岸平野、豊川の河口干潟~前浜干潟であったところ、今の前芝あたりに似た景観がかつての平井の海辺風景であったと思われる)に没する先端辺りになります。この地に注目して、近くの用事のついでに稲荷神社を探訪してみました。
なるほど、上記ご紹介のとおりのお稲荷さんで、台地縁にあって塚状にややもりあがった頂きに祠がおよそ南向きに鎮座した一家屋ほどの面積の神社です。隣は民家、墓地、耕作地(畑・施設園芸)で、いずれも台地側にあります。南は東西にとおる道路を横断して南の低地(水田域)になります。階段脇に遺跡説明板があり、その地図から道路の低地境が2.7m、塚の頂きが5.4mとわかります。付近は標高4mほどです。ハマグリなどの貝殻が多く観察されました。明治~大正、昭和と発掘経緯があり、土器、石器、各種道具・製品の出土から、縄文後期。晩期・弥生の生活遺跡とされています。状痕文土器片やいまは三河湾の干潟にいない、暖かい海にすむハイガイの貝殻もみられましたので、なるほど、すくなくともここには3000~2000年前人々の居住があったものととうなづかされました。
いまも集落が台地沿い等にありますので、湧水もあり、すみやすいところとして、今代も居住が続いていることに生きた歴史を感じさせられました。
歴史時代のいくつかの大津波の到達線のあたりとはどのようなところかという見方で、今回、寒い朝ながら、稲荷神社付近をタイム・ウォークしてみました。
ここは、豊川の右岸の河岸段丘(中位段丘)が沖積地(海岸平野、豊川の河口干潟~前浜干潟であったところ、今の前芝あたりに似た景観がかつての平井の海辺風景であったと思われる)に没する先端辺りになります。この地に注目して、近くの用事のついでに稲荷神社を探訪してみました。
なるほど、上記ご紹介のとおりのお稲荷さんで、台地縁にあって塚状にややもりあがった頂きに祠がおよそ南向きに鎮座した一家屋ほどの面積の神社です。隣は民家、墓地、耕作地(畑・施設園芸)で、いずれも台地側にあります。南は東西にとおる道路を横断して南の低地(水田域)になります。階段脇に遺跡説明板があり、その地図から道路の低地境が2.7m、塚の頂きが5.4mとわかります。付近は標高4mほどです。ハマグリなどの貝殻が多く観察されました。明治~大正、昭和と発掘経緯があり、土器、石器、各種道具・製品の出土から、縄文後期。晩期・弥生の生活遺跡とされています。状痕文土器片やいまは三河湾の干潟にいない、暖かい海にすむハイガイの貝殻もみられましたので、なるほど、すくなくともここには3000~2000年前人々の居住があったものととうなづかされました。
いまも集落が台地沿い等にありますので、湧水もあり、すみやすいところとして、今代も居住が続いていることに生きた歴史を感じさせられました。
歴史時代のいくつかの大津波の到達線のあたりとはどのようなところかという見方で、今回、寒い朝ながら、稲荷神社付近をタイム・ウォークしてみました。
Posted by ノダ at 2013年01月27日 17:55
海と台地が交わるところ それがこの平井稲荷山なのですね
縄文から弥生時代の住居として、住みやすいところなのですね
縄文から弥生時代の住居として、住みやすいところなのですね
Posted by むぎゅむぎゅ at 2013年02月06日 19:49
○吉胡貝塚遺跡との関係
田原市街地の津波浸水区域(2/17記事)に、汐川河口左岸(西側)の台地麓に国指定の吉胡貝塚遺跡があります。前面の干拓低地から比高数m~10m余りで、縄文時代、特に晩期の時代(現代から約3000年前頃)に生活が顕著に営まれていました。
山と海、湧水があり、居住、生活、眺望(物見)にまことに都合のよい位置で、集落に津波の脅威も届きません。
その人々は東三河地方の現代人につながっていますが、先史なので、生活痕のごみダメが祖先の生活を今に語ってくれています。
稲荷山貝塚も同時代の生活史蹟です。
(前に、縄文時代の後期からと書きましたが、晩期からに訂正します。各地で前期からの遺物が散見されますが、生活の痕跡がはっきりするのは圧倒的に晩期からです。前期といえば、縄文海進で内陸まで海岸線が上がった時代でした。標高4~5m線までといわれ、歴史時代の津波到達高度相当になります。)
祖先が経験してきた幾多の津波。昔の人の寿命は短かったので、世代を越えて1回経験したことでしょう。現代人は、それを何で知ることができるでしょうか。ひとつは、海岸から台地側近辺にできた砂州、掃流堆積物といった自然の遺物でしょうし、口伝による地名、民俗・生活遺跡なのでしょう。
リバー・ウオークも、シーサイド・タイム・ウオークにもなって、余裕があればそのようなところを訪ねるのもいかがでしょうか。
田原市街地の津波浸水区域(2/17記事)に、汐川河口左岸(西側)の台地麓に国指定の吉胡貝塚遺跡があります。前面の干拓低地から比高数m~10m余りで、縄文時代、特に晩期の時代(現代から約3000年前頃)に生活が顕著に営まれていました。
山と海、湧水があり、居住、生活、眺望(物見)にまことに都合のよい位置で、集落に津波の脅威も届きません。
その人々は東三河地方の現代人につながっていますが、先史なので、生活痕のごみダメが祖先の生活を今に語ってくれています。
稲荷山貝塚も同時代の生活史蹟です。
(前に、縄文時代の後期からと書きましたが、晩期からに訂正します。各地で前期からの遺物が散見されますが、生活の痕跡がはっきりするのは圧倒的に晩期からです。前期といえば、縄文海進で内陸まで海岸線が上がった時代でした。標高4~5m線までといわれ、歴史時代の津波到達高度相当になります。)
祖先が経験してきた幾多の津波。昔の人の寿命は短かったので、世代を越えて1回経験したことでしょう。現代人は、それを何で知ることができるでしょうか。ひとつは、海岸から台地側近辺にできた砂州、掃流堆積物といった自然の遺物でしょうし、口伝による地名、民俗・生活遺跡なのでしょう。
リバー・ウオークも、シーサイド・タイム・ウオークにもなって、余裕があればそのようなところを訪ねるのもいかがでしょうか。
Posted by ノダ at 2013年02月21日 13:22