2024年05月26日
2024第3回リバーウォーク その5(了)
セメント産業とその歴史を紹介する「田原産業会館」内を見学

粉砕機など工具や機械類、国内で採れる数少ない鉱物資源として知られる石灰石などの関連資料が展示されていました
白谷地区の石灰製造は江戸徳川の時代から始まり、石灰事業は1907年(明治40年)三河石灰㈱によって五軒町に生石灰用徳利窯2基が昭和初期まで稼動し肥料用に製造された。

右上:採石場跡 最大(掘りの深さは-20m)
明治に入り殖産興業(愛知県令の命による藩士救済産事業)として、生石灰を使った実績や技術、豊富な資源があったことから東洋組が設立され、初代社長斉藤サネタカがセメント事業を盛り立て田原の産業革新の基礎をつくる。その後、田原石灰㈱、三河セメント会社、1943年から小野田セメント㈱と事業は継承され、戦後の高度経済成長期を支えた。しかし、経済成長期が終わるとセメントの需要減少は止まらず、工場は生産縮小と業界再編が進み2002年に120年間の地域産業としての使命を終える
(提供資料から一部抜粋 田原セメント会館 原園さん)
鉱山からの採掘方法も傾斜面採掘からベンチカット工法にとって変わり、石灰石運搬もトロッコ、ケーブル、牛舎等からダンプトラックへと切り替わり、道路拡張、産業道路新設にと半世紀間降盛を極めた

(仕事風景 昭和30年代 写真提供:谷津藤城さん)
追伸、今回のウォーキングコースは約15kmと普段より長い距離を歩きました。
渥美半島の景色も 学び方により様々な見方があったと思います。ぜひ興味を持たれた方は豊川リバーウォーク委員会にお声掛けをください

粉砕機など工具や機械類、国内で採れる数少ない鉱物資源として知られる石灰石などの関連資料が展示されていました
白谷地区の石灰製造は江戸徳川の時代から始まり、石灰事業は1907年(明治40年)三河石灰㈱によって五軒町に生石灰用徳利窯2基が昭和初期まで稼動し肥料用に製造された。

右上:採石場跡 最大(掘りの深さは-20m)
明治に入り殖産興業(愛知県令の命による藩士救済産事業)として、生石灰を使った実績や技術、豊富な資源があったことから東洋組が設立され、初代社長斉藤サネタカがセメント事業を盛り立て田原の産業革新の基礎をつくる。その後、田原石灰㈱、三河セメント会社、1943年から小野田セメント㈱と事業は継承され、戦後の高度経済成長期を支えた。しかし、経済成長期が終わるとセメントの需要減少は止まらず、工場は生産縮小と業界再編が進み2002年に120年間の地域産業としての使命を終える
(提供資料から一部抜粋 田原セメント会館 原園さん)
鉱山からの採掘方法も傾斜面採掘からベンチカット工法にとって変わり、石灰石運搬もトロッコ、ケーブル、牛舎等からダンプトラックへと切り替わり、道路拡張、産業道路新設にと半世紀間降盛を極めた

(仕事風景 昭和30年代 写真提供:谷津藤城さん)
追伸、今回のウォーキングコースは約15kmと普段より長い距離を歩きました。
渥美半島の景色も 学び方により様々な見方があったと思います。ぜひ興味を持たれた方は豊川リバーウォーク委員会にお声掛けをください