2011年10月18日

オープンカレッジ課外講座

今年の春受講した「とよかわオープンカレッジ」の課外講座を
講師の栗田昌之先生と一緒に企画しました。

JR豊川駅を出発し、野田城駅に到着しました。
講師を含めて、総勢12人です。
オープンカレッジ課外講座

野田城駅のトイレの前の案内看板の前で、早速講義が始まりました。
野田城と大野田城は交互に築城されたそうです。
武田信玄と菅沼定盈との野田城の攻防が有名です。
オープンカレッジ課外講座

野田城近くの杉川です。堰き止めて、桑渕になります。
オープンカレッジ課外講座

野田城址目前の案内看板です。
オープンカレッジ課外講座

野田城の平面図です。
三の丸、二の丸、本丸と構えています。
桑渕と、竜渕に囲まれています。
1573年の戦いでは、武田勢はまず、桑渕(図の上側)と、
竜渕(図の下側)の水を落とすとともに、
城内の井戸を枯らすため、坑道を掘って、井戸の水を抜く断水戦術をとって、
開城降伏させました。
オープンカレッジ課外講座

先生が乗っている岩は、馬の乗るときに踏んで乗った岩だそうです。
オープンカレッジ課外講座

皆が覗き込んでいるのは井戸です。
オープンカレッジ課外講座

二の丸から本丸を経由して、野田城を無事脱出しました。
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Posted by むぎゅむぎゅ at 21:17│Comments(4)名所旧跡
この記事へのコメント
用事の帰りのついでに、念願の地に初めて訪れてきました。
先に市役所で当城址付近の地図を求めたら、大野田城付近を出してもらい、さっそく訪れましたが、大変なことになりました。
このリバーウォークの度々の紹介記事などしっかり読めばよかったのですが、何の予備知識もなく乗りこんだため、混乱しました。なるほど、かつって甲斐の軍団も当地域の攻略にさぞ苦心したことでしょう。以下は、感想と意見です。
野田城の地は、ひとつの点(拠点)でなく一帯の面でとらえる必要があります。
中位段丘、下位段丘、氾濫原、段丘をかいせきする谷の小河川が入り組み、豊川の低地は舟運の途中の要所・湊となっていたことでしょう。
・野田館、大野田城、付近の寺社、近辺の城址とみて回り、戦国をうまく渡りきった菅沼氏のたくみさを感じ入ることでしょう。
一つ発見がありました。野田城の築城地形が上平井の大谷城の地形によく似ていること、そして防御に地形を選び築城して進化したこと、菅沼型ともいえる直列丸配置、屋敷配置であったことです。
今回の訪問は日没の短時間でしたが、日を改めて近々、わたくしどもの祖先の生活の場をウォークしてみるつもりです。
当地域の戦国時代攻防は、歴史小説・風は山河より(作家宮城谷氏)にくわしくかかれています。三河のひとなりも興味深くうかがわれますよ。
当地は一層興味深くなりました。
Posted by ノダ at 2012年06月04日 13:49
歴史の先生と一緒に現地を訪れ大変勉強になりました。
「風は山河より」は大変面白く参考になる歴史小説と思います。
Posted by 豊川リバーウォーク むぎゅむぎゅ at 2012年07月07日 11:42
歴史の先生と一緒でよかったですね。
そこで、一つお尋ねします。
信玄の野田城攻略のとき、最初に度々目記城に本陣をおき、つぎに采配によい丸山に本陣を移し、1カ月の攻防が展開されたと言われています。その丸山の位置は何処ですか。どなたかご存知の方でもご教授いただけますと幸いです。
厳寒の夜空にながれ響いた笛の曲は、両軍の将兵に風流を感じさせたことでしょう。今世のいがみ合いにも時に風流が必要なのではないでしょうかね。
Posted by ノダ at 2012年07月13日 13:28
ご返事まだありませんので、自問自答になりました。
先日、新城イベントの帰りに設楽が原決戦場資料館に行って調べてきました。
「野田の今昔」の本カバーに当時の包囲絵図があることがわかりました。学芸員さんは、当時の包囲地図がはっきりご存じなかったようでした。住宅地図も明確ではありませんでした。
丸山は、本城址の本丸を起点に北北西1470mの吉水地内の丘に信玄の本陣があったようです。城址の当時の建屋と丘頂の物見との比高約40mとすると、信玄は1度33分の角度で本丸を見下ろす状態になります。陣営は、北の野田城駅あたりもで伸び、移っていたつたえられており、北東方向の範囲は1290m先になります。絵図によると西部や南部も包囲があったようですが省きます。
 野田城包囲の陣営は、半径約1.5kmに
及んでいたようで、昔の城攻防の規模が地形図に投影できます。それほどの規模の戦いが展開されたということは城だけでなく回りをふくめて見学したいものです。
 信玄の本陣の位置は、冬の寒風が弱く
背後が傾斜のある山を背にし、横に川うや谷もあり、采配だけでなく滞在、守りにも適したところを見つけたようです。急襲による桶狭間の今川の轍をふまない布陣でもあります。
 援軍にかけつけた家康もまったく近づくことができづ、こそこそ遠望していたでけでしたが、この攻防戦は次回の長篠城合戦に大きなヒントになりました。
 この籠城戦に使われた鉄砲の一つは、信玄を狙撃したともいわれ、のちの設楽が原の決戦では、多量の鉄砲に勝頼が大敗したのは、大将の不作のようでしたね。用意周到に練った信長、家康の奮起は、この野田城の防衛戦に大きく知恵をあたえ、のちの戦国時代安土・桃山時代に移るきっかけとなったと、勝手に思いめぐらしています。城は小さいが野田菅沼の武将・家臣一族の意志・団結が大きかった、まさに戦国の名城の一つですね。
Posted by ノダ at 2012年07月24日 13:28
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