2011年05月29日

宝飯郡の消滅

5月14日から豊川オープンカレッジで、
「宝飯郡の消滅と新豊川市の誕生」を受講しています。
毎週、土曜日開催で、昨日までに3回目を受講しました。
講師の栗田昌之先生から大変ためになる話と資料をいただきましたので紹介します。
決して頭が痛くなりませんので、気軽にご覧ください。

江戸時代には、宝飯郡で122ヶ村あったそうです。
明治以降、合併を繰り返します。
明治32年の宝飯郡地図をご覧ください。

東側半分。
東上、江島が本茂村、
小坂井が豊秋村と伊奈村だったことを御存知でしたか?
大村、下地町、前芝村は昔は宝飯郡だったのですね。
逆に、八名郡三上村は、昭和30年から豊川市になりました。
宝飯郡の消滅

西側では、
赤坂村、萩村、長沢村が昭和30年に合併して、音羽町になりました。
この時、御油町が音羽町になるか、豊川市と合併するか、町を二分する激論だったそうです。
住民投票を6回も行って、最終的には4年遅れの昭和34年に豊川市と合併しました。
宝飯郡の消滅

豊川市は昭和18年に豊川町、牛久保町、八幡村、国府町が合併し、人口約7万4千人で発足しました。
その後、昭和30年に三上村と合併し、昭和34年に御油町と合併しました。

そして、平成の大合併で、一宮町、音羽町、御津町と合併し、
昨年2月に小坂井町と合併して、
ついに、宝飯郡は消滅しました。

平成22年7月現在の豊川市の人口は約18万2千人。
市は発展し、行政は広域化しましたが、地域の歴史や文化を大切にしていきたいですね。
意外に知らない、我が町、我が村のこと。
オープンカレッジに参加して、大変勉強になります。



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Posted by むぎゅむぎゅ at 08:59│Comments(0)歴史
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