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2012年01月29日

長篠城へ城攻め出陣

 本日、わが部隊は長篠城へ城攻めに出陣し、攻略成功であったface02

 本隊は宇利城の攻撃に、そして引き続き古宮城を攻撃し、成功したようである。

これは1/21から始まった「奥三河城攻めスタンプラリー」の参加の一こまです。

長篠城の城攻めの状況を紹介しましょう!

まずは、出陣命令


縄張りを偵察だ

 
さあ土塁を越えて、本丸突入!




  
タグ :史跡巡り
Posted by ビクター at 21:41Comments(0)TrackBack(0)歴史article_edit

2012年01月11日

院之子 という地名

豊川と豊川放水路が分岐するところに、
院之子という地名があります。


「院之子」は、南北朝時代に戦乱の地を避けて、
院の皇子が従者とともにここに住んだことに由来するそうですが、
江戸時代以降「犬ノ子」と書いた時もあったそうです。

「瀬木」は水を「せき」とめることに由来する水を締め切ったところという意味だそうです。
この地域の堤防を強化して、国道1号とJR飯田線を守っているようです。
  
Posted by むぎゅむぎゅ at 22:06Comments(0)TrackBack(0)歴史article_edit

2012年01月10日

江島付近の河道の変遷

中根洋治さんの「秋葉古道と愛岐地方の旧河道」によると、
江島は、昔、東側の金沢地区との間に川が流れていて、
「中の島」だったそうです。
江島はその名の通り、島だったのです。


松原地区は、豊川の両岸にまたがっていて、
推定旧河道が郡界になっているそうです。

八名郡と宝飯郡の境が現在の豊川と食い違っているのは、
郡界が今の川筋ではなくて、昔の川筋で決めていたためだそうです。


私は、豊川市に住んでいても、豊橋市との境が良く分からないのは、
豊川が川筋を変えたためなのですね。

  
Posted by むぎゅむぎゅ at 20:54Comments(0)TrackBack(0)歴史article_edit

2012年01月08日

鮎滝は人工構造物

鮎滝は自然の滝と思っていましたが、


実は、人工構造物でした。

「1643年(寛永20年)新城藩主水野備後守元綱が、
切り出した材木を流す(江戸時代の初期から行われていたようである)のに、
二の滝が障害になっているとの苦情を聞き、
播州の高砂から石切の石工を呼び寄せこれを切り開かせた。

その時、出沢の滝川宗右衛門(地元の代官)が
その石工を引き続き大海村の太郎左衛門宅に寄宿させ、
私費でもって三の滝を切り開かせた。
これにより、滝は高さ一条三尺、幅六間余りとなり、
以来寒狭川を遡上してきた鮎が良く飛ぶようになり、
名称も自然に「鮎滝」と呼ばれるようになったのである。」


鮎滝の由来は、 林道敏さんのHPから引用しました

昔の鮎滝(三の滝)は赤色で描かれています。


私たちが乗っている岩は、石英閃緑岩といいます。
「石英閃緑岩は,長石や石英の白い結晶の間に、
黒っぽい角閃石や黒雲母の結晶粒が点在し、
磨耗して丸くなった岩や風化した砂はしばしば真っ白に見える.
石英閃緑岩は、露頭で長期間太陽にさらされると、
わずかな膨張と収縮の繰り返しにより、
結晶粒の間に亀裂が生じて、風化が進行しやすくなる.」


若干の亀裂が縦、横に入っていますが、
この岩を火薬や人力で砕くのは、大変そうですね。


岩のことは、藤田 崇(大阪工業大学名誉教授)のHPを引用しました

花崗岩も、閃緑岩も親戚です。
左から花崗岩、閃緑岩、はんれい岩、かんらん岩。
色の違いは分かりますね。


  
Posted by むぎゅむぎゅ at 14:12Comments(0)TrackBack(0)歴史article_edit

2011年12月31日

山本勘助

NHK大河ドラマ「風林火山」で勘助ブームが起きてから、すでに5年経ちました。


山本勘助が賀茂で生まれたとの説について、
賀茂校区元文化協会顧問の山本先生から教えていただきました。


「勘助の先祖は代々駿河国富士郡に住み、
曾祖父のときに2500石の領主として賀茂に着任した。
その第三代が山本藤七郎光幸といい、三人の男子の末子が
勘助(幼名を源助)である。

勘助は1500年8月15日に出生し、
15歳の正月15日に当古の牧野家家臣大林勘左衛門貞次方に養子に入り、
名を大林勘助貞幸と改め、牛久保に住むようになる。

勘助は牛久保に住むこと約10年にして武者修行に出た。
旅の途中の25歳の時に高野山に登り、摩利支天堂に7日間こもり、
摩利支天を受けた。

このお守りを身につけ、武者修行を続け、主として道場破りに専念した。
そのため、身に75か所の傷を負い、目、足、指などが不自由になった。
諸国修行の豊富な経験をもとに、城造り、軍略を研究したのである。」


お話を賀茂の本願寺で聞いています。


こういう話を聞いたうえで、大河ドラマを見たかったですね。

こちらは、山本家歴代のお墓です。


本願寺から少し離れたところに、山本勘助の碑があり、説明文があります。





  
Posted by むぎゅむぎゅ at 11:27Comments(0)TrackBack(0)歴史article_edit

2011年12月24日

境川

豊川市と新城市の境にある境川。
昔、郡があった時代は、宝飯郡と設楽郡の境でした。
地図では宝飯郡は、昔の字で「寶飫郡」と表記されています。
寶は「宝」の旧字体です。
飫は「物が豊か」という意味です。
従って、宝飯郡とは、宝が豊かなところということで、
温暖で、土地が肥沃だったのでしょうか?


9月の境川です。草が茂っています。


川に降りる階段がありますが、草が行く手をふさぎます。


11月の境川です。草がきれいに刈られています。


橋もかかって、向こう岸に渡れます。


清らかな流れも間近に見れます。


リバーウォークの参加者も大変助かりました。



  
Posted by むぎゅむぎゅ at 09:53Comments(0)TrackBack(0)歴史article_edit

2011年09月17日

平井稲荷山貝塚

縄文時代の地球温暖期の海面は今より3~5m高く、
豊川下流域は遠浅の海だった。
人々は両岸の台地に暮らし、小坂井町や牟呂の貝塚は当時の海岸線を物語る。

平井稲荷山貝塚はそのひとつ。
3000年から2300年前の縄文晩期だそうです。


石碑です。
石碑の周囲には貝殻が散乱しています。




貝塚はこのように分布しています。


湧水も出ていたようです。


現代の平井稲荷山貝塚の近くを新幹線が通ります。



  
Posted by むぎゅむぎゅ at 23:10Comments(0)TrackBack(0)歴史article_edit

2011年09月16日

何の変哲もない橋ですが

瓜郷遺跡のすぐ南の橋。
何の変哲もないごく普通の橋ですが、


鹿菅橋といいます。


鹿菅村の地名が残っていました。


江川に架かる橋です。
  
Posted by むぎゅむぎゅ at 21:43Comments(0)TrackBack(0)歴史article_edit

2011年09月15日

弥生時代の竪穴住居

馬越長火塚古墳は、約1,400年前の前方後円墳でしたが、
この瓜郷の竪穴住居は、約1800年前の弥生時代中期のものです。




瓜郷遺跡は低湿地に囲まれた自然堤防の上に立地し、
稲作のほか、漁労、狩猟がおこなわれていたそうです。

土器、石器、骨角噐、木製農具の出土品があり、
豊橋市美術博物館に収蔵されています。

  
タグ :弥生瓜郷
Posted by むぎゅむぎゅ at 20:22Comments(0)TrackBack(0)歴史article_edit

2011年09月13日

馬越長火塚古墳

馬越長火塚古墳は、約1,400年前の前方後円墳で、愛知県下最大級の横穴式石室の古墳です。

前方の部分です。


こちらは、後方の円墳部分です。


入り口から入ります。


一番奥は大きい一枚の岩です。


天井も大きい岩です。


側面は小さめの岩が積んであります。


アンモナイトです。


うそです。
石室の住民 カタツムリです。

古墳の全体図です。


確かに、巨大な古墳でした。
こんなに巨大な古墳が身近に見れて感激しました。

馬越長火塚古墳は、豊橋市石巻本町にあります。


  
Posted by むぎゅむぎゅ at 21:49Comments(0)TrackBack(0)歴史article_edit